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PAERADIGM FACTER

2011-03-25
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謹啓

植村です。こんにちは。

個人コラムということで何を記そうか迷っておりましたが、結局ごくごく平凡に、自分の生い立ちと舞台芸術に関わるまでのいきさつを、
つらつらと書き綴ってみようと思います。

あまり他の人にとって有用な情報はございませんので、興味の無い方にはごめんください。


1982年(昭和57年)、私は三重県の朝日町という場所で生まれました。母は出産のために実家へ帰っておりましたので、
生まれた病院は別の場所ですが、ともかく最初に出生届けを出したのは、この朝日町でありました。
父は家電メーカーの会社員をしておりましたので、私はその次男坊として三重で五年ほどを過ごします。

覚えている中で一番古い記憶は、社宅の一室で兄と遊んでいる様子です。
たしか、洋服箪笥の取っ手から甘いジュースが出てくるという設定で、三つ上の兄と何らかのごっこ遊びをしていたのでしょう。
親からは、もう寝なさいといわれて、部屋の電気は消してありました。
襖の間から漏れてくる細い光を頼りに、声を潜めて遊んでおったように思います。

田舎でありましたし、家庭用のゲーム機などもまだありませんでしたから、虫を取ったり走り回ったりしながら、
今で言えばとても健全に、健康的に遊んですごしていました。
素手でバッタを捕まえるのが得意でした。また、星もよく眺めておりました。

そのまま父の転勤の都合で、横浜へと転居することになりました。
横浜は鶴見区、北の川崎に程近い町です。

五歳で横浜に移り、2011年の現在まで、住む部屋は変わりましたもののずうっと横浜市民を続けていますので、
「ご出身はどちらですか。」と人様から聞かれた場合、今ではだいたい「横浜のほうなのです。」と答えることにしております。

転居してから一年もしないうちに、小児大腿骨頭壊死(ペルテス病)を患い、数年間の入院生活を送ります。
このあたりのことは、書いても読んでいただいても気分のよくない何行かが出てまいりますので割愛いたします。
完治するものではありませんが、現在の生活に支障がないので、当時の親の心情を考えると少しいたたまれないですが、当人には別段たいしたことではありません。
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退院後、運動制限が残っていたために、何か座ってできる趣味をということで、ピアノを習い始めます。
社宅のご近所様からエレピアノ(クラビノーバの前身モデル?)を譲り受けて、ピアノ教室へ通い始めましたが、
あまり熱心に練習しない生徒だったので、高校入学を前にやめてしまいました。
ただ、師事した先生がとても優しい穏やかな方で、最後まで音楽や楽器の演奏を嫌いになったりはしませんでした。
押し付けの教材や曲目ではなく、常に自分で弾きたい曲を選ばせてもらえる環境にありましたため、
「表現を楽しむこと」という一点では、その後の生き方に、現在の舞台芸術への関わりに影響するものになりました。

中学、高校と吹奏楽部に所属をし、トロンボーンを吹いておりました。
本当を言うと、私はトランペットが吹きたかったのです。
ただ、学校の部活動においては希望の楽器パートがあてがわれないことも多くあります。
金管楽器の花形であるトランペットなどは希望の人数が集中して、小学校マーチングバンドからの経験者が優遇される典型でした。

少しのガッカリはありましたが、それでも管楽器の中でも特異な形状のトロンボーンに面白さも見つけて、六年間毎日吹いておりました。
(高校入学時に楽器パートを転向する機会があったはずなのですが、私はそこでもトロンボーンを選んでいます。楽器を持っていた、ゼロからの学習では付いていけないなど諸々理由はありましたが、結局トロンボーンが気に入っていたのかもしれません。)
ただし、どうも私は音感が優れているわけではなく、単純な上達への意欲も少なかったため、楽器の腕前はからきしでした。
なんだか建前や周りの評価ばっかり気にして、恥をかき続けていたような気がいたします。周りは誰も気にもとめていないようなことで。

なんにしても、上記の中高にわたる吹奏楽部生活で、完全な腹式呼吸と肺活量を手に入れることができたのは幸いだったように思います。
同時に厄介な頚椎椎間板ヘルニアも手に入れましたが、いまではうまく付き合っております。


そのころ将来について、漠然と表現を生業にしたいと思うようになっておりましたが、決定的だったのが扉座の観劇でした。
原宿のデヴィアス??という劇場で、初めて小劇場の演劇に触れました。
こんな人たちがいて、こんなに面白いことをしているのだ。終演後にじんわり思いました。
学ランのまま、先輩に連れられて。

進学先を決める折、たくさんの学校を見学に行きました。
ひょっとしたら井内さん、野木さんの後輩だったかも知れません。
なぜ桜美林大学を選んだのかは、ちょっと詳しく思い出せません。たまたま、だったからか、新設学部ということに惹かれたのか、そんなところだと思います。

勢い込んで入学して、「演劇の天下を取ってやるぞ」と、まじめに決意したのを思い出します。
誰かの言葉を借りるなら"そういうまじめな輩の芝居はたいていつまらない"そうで、今でこそ全くだと思いますが、そのころは何につけても一直線で、余裕がありませんでしたね。

桜美林大学文学部総合文化学科で、平田オリザ氏や坂口芳貞氏に師事しました。
お二人の人脈で、大学にはものすごい数の演出家や俳優、美術家、照明家、音響家が講師として招かれていたのを覚えています。
初期のこの学科には、決まった教え方など何一つなく、ただ膨大な量の出会いと発見の中から、自分の必要とするものを学びとる機会だけが与えられていました。
中でも、青年団の才人達には、集団の運営やスタッフワーク、アートマネージメントの分野において多くのことを学びました。

昼の必須科目の座学で寝て、実技だけまじめに受講し、夕刻から深夜、時には朝まで学生劇団の稽古、仕込み、本番に明け暮れるという、なんとも素敵な毎日を送っていたものです。
稽古場や学内の上演スペースがすべて学生管理に任されていましたので、小屋の管理から演技まで、小劇場演劇の縮図が(極小ですが)そこにはあったのです。

この大学生活の途中で、パラドックス定数を主催する野木萌葱女史に出会います。
大学の同輩、伊藤泰行(今では立派な照明家です)の関係で、私の出演する公演の客席に、たまたま野木さんが見えておられました。
2001年、雨の少ない暑い夏のころでありました。

その翌年の二月に予定されていた、パラドックス定数第六項「三億円事件」が、私のパラドックスデビュー作になります。
当時19歳で、学外の劇場を利用したことがなかった私は、ご同業の皆様がよくご存知の理由でアルバイトに精を出すことになります。

三億円事件のお誘いは、予定されていたキャストが出演できなくなったための代替要員としてのものでありました。
未成年が警視の役をやらせていただきました。「警視」って、なんだか知りませんでした。
舞台上で役者が煙草をずうっと吸っておりました。もうこんな公演は二度と打てないのでしょうね。


以降、ありがたいことにパラドックス定数の公演にたくさんお誘いをいただきまして、
私の卒業後の俳優活動は、パラドックス定数を中心に回転していくこととなります。

歳と公演を重ねるごとに、学生時代にインプットした膨大な情報が、少しずつ理解できてくる。
そんな日々でありました。

2007年の劇団化の際にもお声がけいただいて、集団の一員として正式に参加することになりました。

声だとか、顔だとか、体格だとか、技術的なうまい下手ですら、俳優の本当の良し悪しとは直接関係しないのだということを、
三十路を手前にしてようやく深く体感している次第です。
知識として聞いた風なことは、やはり伝聞でしか脳内に存在してくれないので、もう9年出演させていただいておりますが、毎回七転八倒しております。

今のところ、劇団に私の席が何とか残っているようですが、つまらない芝居をするようになったら、きっとすぐに首が飛ぶことでしょう。
同時に、つまらない脚本しか生まれなくなったら、ここにはじきに誰もいなくなるでしょう。
そういう集団であると思っていますし、そうあるべきだと考えます。

これらは一つの勝負事で、俳優陣は、主催の手の届く範囲の中で最もパラドックス定数に有用な人員であること。
野木女史は俳優陣が出会う脚本家のなかで最も心震える脚本を書く作家であること。

当たり前のようで、そしてなんだか公平ではないような勝負ですが、また、人の人生ですので、ずっとということはないのでしょうが、
今しばらく続いてほしいと思う今日この頃であります。
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以上、、植村の略歴でありました。
長文、乱文失礼いたしました。


敬白


2011年 春分 植村宏司


*外の皆様に向けての文面で、身内の人間に敬称をつける等、不適切な表現がありますが、劇団員としてではなく、飽くまで植村一個人の立場としてのものですのでどうぞお許しください。






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 植村宏司

俳優 webプログラマ 1982年生まれ、2002年ごろからパラドックス定数に参加、2007年の劇団化を受けて劇団員として所属、横浜在住。







コメント(5)

お疲れさまでした。素敵な時間を一緒に過ごさせて頂きました。
ありがとね!うえむ!

お疲れ様でした。

『俳優陣は、主催の手の届く範囲の中で最もパラドックス定数に有用な人員であること。
野木女史は俳優陣が出会う脚本家のなかで最も心震える脚本を書く作家であること。』

今回の公演で思い知らされました。

観終わってもなお、心が締め付けられたように苦しいです。
気を抜けばあの空間に引戻されてしまいそうな程。

また次回、あなたにお会いできる日を楽しみにしています。


こちらこそ、本当にありがとうございました。
100分間、あの場所で時空を切り取ることができたような気がします。

sachiさま、コメントありがとうございます。
あの部屋と、その外側にあるたくさんの事象を感じていただけたならば、冥利に尽きます。
次は八月、また劇場でお会いしましょう。
ご来場本当にありがとうございました。

いやはや。途轍もない勝負事ですな。受けて立ちましょう。これからも覚悟召され。本気で参りますよ、それが礼儀ですからね。