paradox constant webmagazine

5seconds x nf3nf6

PAERADIGM FACTER

2011-03-01
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つまりは、一目惚れだったのだ。

 パラドックス定数の舞台を初めて観たのは2009年の『五人の執事』。作・演出家:野木萌葱がパラドックス名義で作品を世に出してから10年余が過ぎ、公演回数第19項を数えていたという、芝居を観ては書く生業のモノとしては、アンテナ低過ぎの体たらくな出会い方ではあった。だから、過去の戯曲を読みこそすれ、舞台ではいまだに五つの作・演出作品+戯曲一作にしか触れてはいない。

 それでも、最初から「それ」は私という観客をダイレクトに射抜いた。

 『五人の執事』は、恐らく劇団では取り組まぬであろう大きな空間に、無限回廊とでも呼びたい奇妙な廊下が結び合う屋敷をつくり、表題どおりに五人の執事が行き交う芝居だった。瀕死、という設定のもとに不在の主。ドアマン、鍵守り、料理番など役割で識別されアルファベットの名しか持たぬ執事たちは無機的な外見をよそに、畏れや不安、疑惑、諦念など繊細な感情を舞台に織り上げていく。そして、何より個人的に心惹かれたのは、野木の紡ぐ台詞の言葉だった。

 端正、と言えばいいのだろうか。今時はやりのゆるい身体とは無縁に背筋が伸び、性差からも解放されたような野木言語は、乾いた喉を潤すように私の中に染み渡った。それが、この一作に限らぬものだと言うことは、連れ帰った戯曲からもすぐに分かった。


 あとはもう、追いかけるだけのことだ。『東京裁判』(再演)、『ブロウクン・コンソート』では、俳優たちが担う役割(キャラクター)が作品ごとに余りに違い、その鮮やかな変身ぶりに唸らされ、また、史実の裏側を読み、緻密に織りあげる作家の強靭な想像力を楽しんだ。

 三鷹芸術文化センター委嘱による「太宰治作品をモチーフにした演劇 」から生まれた『元気で行こう絶望するな、では失敬。』では、劇団内外の男優20人全員を太宰治の分身にしつらえ、大ゼリで舞台に押し出すパワフルな演出が小気味良かった。

 自作『38℃』を改訂した『蛇と天秤』では、人間の生命の尊厳にエゴと欲むき出しで向かう医療関係者の、"語るほどに落ちる"会話の闘争に酔った。

 そしてどの作品にも、それこそ執事という職業に寄り添うイメージのごとき「真摯」と「誇り」、「自負」を感じさせて止まぬ、ストイックかつ、これまた端正な佇まいで戯曲に向かう俳優たちの姿が在った。


 端正な言葉と俳優に支えられた大いなる創造的妄想。

 私がハマったパラドックス定数の劇世界を、一文で表すならこんな風になろうか。どの舞台にも基本的に複数回通ったが、裏切られたことはない。


  そして、この度は旧作二本を改訂しての二人芝居連続興行。恐らくは野木の言葉と俳優の存在が火花を散らして拮抗する、濃密な時間が劇場を満たすことになるだろう。

 最初に幕を開ける『5 seconds』は航空機事故をめぐる機長と弁護士の対話を、続く『Nf3 Nf6』では第二次世界大戦末期、ナチス将校とユダヤ人数学者の収容所内での チェスを介した闘いが描かれるという。改訂と銘打つとき、大幅に筆を入れがちな野木が二つの自作にどう挑むのか。5年余の時間を経て、役割も新たに戯曲に向かう俳優たちは何を想うのか。

 そうそう、パラドックス定数の魅力をもうひとつ。これは個人的な感想ではあるのだが、この集団の創作には、作品と俳優との間に観客には決して入り込めない緊密かつ完美な関係性があるように思える。いや、どんな創作物でもそうなのかも知れないが、殊にそう思ってしまうのだ。

 きっとそれは、観劇後の充足感とともに残る微かな嫉妬のせいだ。あの美しい言葉を、余すことなく自分たちのものにしている俳優への。それを「魅力」と呼ぶ、屈折した観客心理はこの際、大目に見ていただきたい。 

 

Text by Sora Onoe
コメント(1)

尾上さま。
今の今まで御礼も申さず、本当に申し訳ありません。偏愛に満ちた素敵な文章、ありがとうございます。年明けから二人芝居二本に没頭し、ようやく日常に戻って参りました。毎回同じことばかりでアレなのですが、これからも芝居に没頭し続けて、ああもう二度と抜け出せないのでしょうね。その足掻きっぷりを見ていただければ嬉しいです。とてもとても醜い姿かと思いますが。退屈は、させません。ええ、絶対に。